#7 妄想で会ったマレー・フランクリン
2019年公開映画『ジョーカー~JOKER』分析
The Joker sees with his mother a show of Murray Franklin "Joker" Part 007
マレーを素晴らしい人だと信じているアーサー=マレー殺害の伏線
お母さんの部屋でテレビを見ていたはずのアーサーがトークショーの客席にいます。身なりが少しだけ上等に変わっています。
これはもちろんアーサーの妄想シーン。
映画ではアーサーがマレーに「愛してるよ!」と叫び、それを聞いたマレーがアーサーを立たせますが、シナリオではさらに妄想らしく、客席を見渡したマレーは拍手しているだけのアーサーに目をとめ、「そこにいるのは誰だ?」と言い始めます。
アーサーを立たせ「君には何か特別なものがある」とまで言うのは、映画とシナリオどちらも同じです。
まあ、どんなに陳腐でも、妄想するのは自由です。
映画からはカットされましたがシナリオで一度現実のお母さんを見るシーンがあります。
カットされたシナリオのシーンでは、妄想の途中で数秒間現実に戻り、また妄想に戻っていっています。
これは『ショーの会場にいるアーサーは妄想で、お母さんと一緒にいるのが現実です』と知らせるためだったと思われますが、カットされているので、敢えてわかりにくくしたというか、お客さんに考えてもらうスタイルに変更したということでしょう。
妄想の続きです。アーサーはステージに呼ばれ、マレーと並んでお客さんの歓声を受け、「君のような息子がいたら、照明、ショー、観客の愛、全部一瞬で捨てる」と、夢のようなことを言われてハグ。
これはアーサーが『父親』に憧れがあって、マレーが父親のような存在になってくれたら…と夢見ているところです。
生まれたときから父親がいなかったら、どんな大人になっても、父親のような存在を欲しいと思うでしょう。アーサーは父親に憧れがあると知らせるためのエピソードです。
これは、あとでトーマス・ウェインを父親と信じて裏切られて傷つく伏線でもあります。ずっと父親に憧れていたところに『本当の父親』が現れたら、どんなに喜んだか…なのに裏切られて…ということです。
そして同時に、マレーを殺す伏線でもあります。マレーが自分を馬鹿にしていることを知ったとき、「マレーが父親だったらよかったのに」と思っていただけにショックだったから殺してしまったというわけでした。
マレーとの最高に幸せな妄想の直後、シナリオにはないシーンがあり、落ちくぼんだ目のアーサーがテレビの青いぼんやりした光に照らされているところが大写しになります。横にはお母さんがいます。現実です。妄想の世界の好青年風アーサーとは、顔つきがまったく違って、疲れ果てています。
今見た妄想が幸せすぎて、ほんのかすかに微笑みます。
Joker Official Soundtrack | Defeated Clown - Hildur Guðnadóttir | WaterTower
このシーンで大事なことは、「アーサーはお母さんを大事に思っているんだな」と解釈するのは大間違いだということです。
毒親育ちあるあるですが、母親を心の底では嫌っていても、本人は愛していると信じています。そう信じ込まされています。自分が実は母親を嫌っていることに気がついていません。
毒親は、自分は子供を愛していないと同時に、子供には愛情を要求し、「おまえはお母さんを愛している」という洗脳をしかけてきます。洗脳して自分の都合のいいように利用します。赤ん坊のころからこれをやられるので、子供は自分の本心がわからなくなります。
そしてそれ以上に、子供はお母さんを無条件で愛したいものなのですね、悲しいことに。
心の底では、母親が自分を利用しているだけだと実は知っているけれど、それを自分に認めることは許されていません。子供は「母親を嫌うなんて罪なことだ」と思い込んでいますし、世間は「親は子供を愛しているものだ」とプレッシャーをかけてきます。
本当は、アーサーは母親を嫌っています。でもそれを自分に認めることは許されていません。
この葛藤が、毒親育ちです。
本当は親が嫌いなのに、嫌うことは許されない。
結果、自分でもわけのわからない怒りが常に湧いてきますが、どうにもならなくて苦しみます。
その証拠に、後のシーンでアーサーはお母さんを殺します。本当のことに気がついてしまったからです。